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トランスヒューマンガンマ線バースト童話集 を読んだ

トランスヒューマンガンマ線バースト童話集

トランスヒューマンガンマ線バースト童話集

これです。ネタバレ?あったらごめんなさい。これは書評ではなく読んで思ったこと考えたことです。

概要

「トランスヒューマンガンマ線バースト童話集」は第6回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作の作品が単行本化したものとのこと。そもそも僕がこの本を知ったのはこの書評を見てから

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

僕はこの本と同じような「童話の下書きにしたSFショートショート」を同人誌でやっていて、一緒にサークルやっている人との会話で「おいガチ勢がいるぞ」という流れで見つけて買ったのがきっかけ。

SFリテラシの話

この本はタイトルにもあるように、

がガジェット、あるいは話の骨子となる道具として使われている小説である。

この2つのワードがある小説といえば、イーガン先生のディアスポラなんですけれど、

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)

ディアスポラはなんか最終的に地球なんて言う一箇所に固まっているとガンマ線バーストとかいうイベントに耐えられないから散り散りになろうぜとか、その過程でファーストコンタクトものになっていくんですけれど、トランスヒューマンガンマ線バースト童話集にもガンマ線バースト後に地球の外に出る力学が働く描写らしきものはある気はする。

けれどもディアスポラのやりたいことは地球外生命体を探すきっかけとしてガンマ線バーストを使うことだったり、トランスヒューマンの「発生」ついての描写とかをやりたかったのかなと思う。

それに比べてトランスヒューマンガンマ線バースト童話集は、銀河ヒッチハイクガイドのような雰囲気だった。モンティ・ホール問題のくだりとかね。MPSのくだりとか絶対作者ニヤニヤして書くなこれってなる。僕もなると思う。

つまりこの2つは道具は同じであれど、描く枠が全然違っていて、ディアスポラは道具の前後をやりたいわけだし、トランスヒューマンガンマ線バースト童話集は道具を使って笑かしにきているわけだ。

ただ、この笑いを楽しむにはどれだけのコンテキスト、リテラシが必要なのだろうかと思った。

まず、童話の知識が必要である。シンデレラを知ってないとシンデレラが脱出するところで警備ロボに具体の足首を撃たれて、足ごと王子様のところに残してくところで笑うことは出来ないだろう。僕はここでこの話、大好きってなるんですけれど。

そしてトランスヒューマンに関する知識であったり、現代SFを覆う機械知性だとかそういうのがあんまり説明なしに出てくるので、知らないと少しのけぞるかもしれない。というかイーガン先生の話が読めたらこの本はすごく楽しめると思います。めんどくさいオタクの言説になってきた。

とはいえ、もしかしたら知識がなくても面白いかもしれない。「みらいみらい」から始まるシンデレラの話はすごく期待を膨らませ、謎の魔女のツンデレなところとか、実はアツいところとかあるし、おそらく読者の期待するであろうSFシンデレラがそのまま出てくるので、軽い筆致も相まってグッと引き寄せられる。

一方、竹取物語となるとノリが変わってくる。読者の取り分がほとんどだったシンデレラから、作者の取り分が徐々に上昇していくような。まず竹が簡単な知性を持っていて、竹取の翁とかに電子戦を仕掛けてくる。かぐや姫は半ばトロイの木馬的な感じで竹に規制して生まれるわけだけど、そこからは攻殻機動隊の少佐バリの高性能っぷりを発揮する。面白い。ちょっとデカイ設定が入ってくるのがうーむとなったけれど。

白雪姫はちょっと悲しい。仮想現実の話が社会問題になって、オオゥそうかとなる。ここから雲行きが変わっていく。4つ目の話の下敷きはさるかに合戦なんですかね? ちょっと自信がない。カニが主人公なのと蜂が出てくることからそういうふうに思った。なんでわからんのかというと、前半3つとは違って、話の流れを原作どおりに踏襲していないからだ。あと主人公がトランスヒューマンじゃなくてカニだしね。あとテナガエビとシャコとタダタダタダヨウガニが仲間。タダタダタダヨウガニに至っては劇中ではTTCと言って、群体が1つの知性を持つみたいな感じの描かれ方をしている。うぉー、ハードSFだぜ。ただ笑かしにきてるけれど。そもそも甲殻機動隊っていうタイトルだしね。ただ、カニ部隊視点でアクションやってるもんだからだいぶ読み進めにくい。後半になってくると慣れてくるんだけれど慣れてきたところで終わるみたいな。スラスラ読めるアクションものを書くのは難しい。自分で書く時はもはや戦闘描写は諦めて、データとそれを見つめる戦術AIとの対話みたいなののほうがまだ読みやすいのが書けるんじゃないのとは思うことがある。ただ、これが行き着くと富野アニメの口喧嘩になるのかもしれない。

モンティ・ホールころりん、もといおむすびころりんはとにかくウィットだらけで面白い。ここで出てくる特異点コンピュータっていうアイディアは好き。しかしこれを叩き割るんだよな。ちょっとだけ人間やっててトランスヒューマンもかわいいところあるなってなった。アリとキリギリスは完全に人間っぽい話で、とにかくウェットなんだけれど最終的に今までの話を折りたたんで、なるほどこういうふうにつなげるかとなった。竹取物語のところのデカイ話は全く触れられてないけれど。

そういうわけで、キーワードをググりながら読むともしかしたらSF入門になるかもしれない……どうなんだろう?

ですます調の功罪

昨今、僕の話でも結構な割合で「ですます調」を採用することが多くて、まあこれなんでだろうなと思うんですけれど、話がやりやすいからですね。ですます調の時点でほとんどのケースで地の文は三人称になると思うんですけれど。いや、丁寧なおじいさんが一人称でやってるとか日記とかね、あと過去のインタビュー形式とかそれでですます調を三人称以外でやることもできるとは思うんですけれど。それはもっと技巧的というか。

ここでいう話がやりやすいって、話を聞いてもらいやすいってことなんですけれど、別の「だである調」だとなんかドギツイ。「ええ、そうなの!?」ってなる。ですます調だといきなり不思議な事が起こっても「ふむー物語だからそういうもんか」ってなる。童話は「ですます調」で読み聞かせてもらっていますからね。物語を物語であると認識できるから、その分受け入れられる器が広いわけで。

ただ、感情移入という点では劣る。三人称という時点で劣ると思うけれど。三人称にも神視点と個人視点?があるけれど、個人視点ではない三人称はどうしても感情移入がしにくい。SFってそもそもが説明になりがちなもんだから、「この話って小説なんだっけ、未来技術の解説書だっけ?」の狭間で揺れ動く。いいエンタメやってるSFは物語がちゃんとある。ガジェットがバキーンバキーンぶつかっているものにはならない。だけど物語に感情移入って必要だっけってなると必ずしもそうではなくて、感情移入ってたぶん読みやすさパラメータが上昇する変数なんじゃないかと思って。読みやすさは面白さにつながると思うんだけれど、面白いってその軸だけじゃないし、必ずしも「面白い小説」に必要なものではないかもしれない。

ここまで書いてきて思ったけれど、三人称神視点だと感情移入できませーんってのは、もしかして読解力が低いから!?とおもったけれど。

「ですます調」は便利だし、それなりにテクい事ができるので最近のマイブームだし、そもそも童話集という体のこの本では必須の要素だと思う。

巻末の講評

ただ巻末の講評で審査員の方が「普通のSFが読みたい」と言っていて、テクに走るなと解釈した。そもそも普通の書き方でちゃんと書けないと、テクい書き方でもうまく話を書けないよねっていう。別の作品に対する感想で「斜に構えすぎ」もあった。面白い。サプライズな面白さが講評にあってずっと笑ってた。

まあ明るいSFも読みたいよね!ってのがある。なんかデカイ根底のテーマがあって、話の始まり、つまり問題提起からやってガジェットやらなんやらでオチまでつなげるのもあれば、このオチやりたいから逆算で組み立てるのもあるとは思うんだけれど、アイディア一発勝負だと、伸びが無いと言うか、そういう感じなのかなと思った。あと書くときの技量もいるしね。僕も同人で戦闘機アクションとか書いてましたけれど、「お前にはまだ早い」って言われたことありましたね。やりたいことに技量がおっつかないというか。身の丈にあったことを書いて鍛えるのが大事なんだなって。SF書くのはこう思うとフルスタックだわ。

というわけで皆さんも読んでみてください。